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27日に下田でお吉祭りが行われます

3月27日に下田のお吉ヶ淵と宝福寺で唐人お吉供養祭、お吉祭りが開催されるよ

悲劇のヒロインとなった「唐人お吉」

唐人お吉 下田お吉祭り

唐人お吉 下田お吉祭り

桜のもとで艶やかに行われるお吉の供養祭。

毎年3月27日、市内のお吉ヶ淵と宝福寺で、開国史の悲劇のヒロイン・お吉の供養祭がとり行われます。

お吉ヶ淵では、下田芸妓衆や観光関係者による献花が行なわれます。

○お吉ヶ淵法要 10:00~
○宝福寺法要  10:45~
○芸能大会(下田市民文化会館小ホール)11:10~
○青空市 10:00~14:00

引用元 伊豆下田観光ガイド-伊豆下田観光協会公式サイト-

 

 

お吉についてはここで素人が綴るよりも、数多の作品を見た方が遥かに心に響くであろうと思われます。ですからその生涯を紹介するに留めておきます。それでも長めですがご容赦を。

 

本名、斎藤きち、通称お吉は14歳で下田港に入った船乗りなどの身の回りの世話をする宿専属の芸者になったそうです(※諸説あります)

見目も良く、声も美しく新内の明鳥の歌が上手なことから「新内のお吉」「明鳥のお吉」などともてはやされた少女でした。

お吉がこれから芸者として大成していきそうな17歳の時。

下田奉行所支配頭取、伊差新次郎からお国のために下田にあったアメリカ領事館の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの元へ使えてお世話係をしろと迫られます。

お吉は大金を積まれてもそれを固辞しました。当時の外国人は庶民からするとそれは怖ろしい存在であったようでさまりなんというところでしょう。またお吉には大工で鶴松という名の恋人がいましたので、嫌だったとも思われます。

伊差新次郎はそこで矛先を代え、鶴松に武士に取り上げることを提示し、お吉と別れるように促しました。欲に眩んだ鶴松はそれに従います。

傷心のお吉は伊差新次郎の条件を呑みハリスの元に使えます。

しかしお吉は3日で奉公から帰されました。理由はよく分かりません。お吉の身体にできものがあったからとも言われているようです。

しかしそんなお吉に対して村人は夷人に肌を許した女、「唐人お吉」と呼んで蔑み石を投げつけました。唐人とは当時の差別用語のようです。

これがお吉の苦難の人生の始まりであり、お吉が酒に耽るようになる切っ掛けとなったのです。

その後、お吉は江戸に登るハリスに同行します。お吉はこのままずっとハリスと共にある覚悟のようでしたが、江戸に着くと幕府から手切れ金を渡されお払い箱にされてしまいました。

お吉はそれからしばらく歴史上から姿を消します。

再び現れたのは横浜です。
かつてお吉の恋人だった鶴松は一度は武士になれたものの、結局幕府は崩壊し武士の地位はなくなってしまいました。
そして仕事にあぶれた鶴松はその頃開発が盛んだった横浜の地で土方仕事で暮らしていました。

そんな鶴松とお吉は横浜で偶然巡り逢います。
十年振りに再会したお吉と鶴松は、その夜から鶴松の長屋で一緒に暮らし始めることとなりました。

再びお吉とよりを戻した鶴松は一所懸命に働き、お吉は甲斐甲斐しい妻として二人の幸せな生活が始まりました。
お吉はこの間に横浜で髪結いの店に勤めてその技術を身につけます。

そうして4年が過ぎた頃、二人は下田のことを懐かしく想いついに帰ることを決心しました。

元々大工だった鶴松が下田に家を建て、そこで二人の新たな生活が始まりました。
お吉は下田で髪結いの商売を始めましたが、横浜で学んだ最新の流行を持ち帰りお店は繁盛します。

どうやら文明開化の進んだ御代で、この頃には唐人お吉として蔑まれるのは影を潜めていたようですね。

しかしそんなお吉に芸者だった頃の旦那集から声がかかるようになり、お吉は座敷に上がるようになります。

お吉は勧められるままにお酒を飲みますが、だんだんと酒癖が悪くなり、その事で鶴松と口論するようになりました。そしてついには喧嘩別れしてしまいました。

その後、お吉は三島で芸者をしていましたが、また下田に舞い戻り髪結いを始めたものの、地元の船主から小料理屋兼遊女屋「安直楼」の経営を任されます。

しかしこの頃のお吉は酒に溺れた酒乱となっていました。まかされた店のお客の前でくだを巻いたりと酷い姿をさらすうちに、客足は遠退き、結局安直楼は潰れてしまいました。

その後、お吉は自暴自棄となったのか、さらに酒浸りとなります。身も心も疲弊し、ついにはその日暮らしもままならない状態になってしまいます。

その結果、お吉はついには乞食の集団にまで身を落としてしまいました。
ただお吉は自尊心は失わなかったようで、人からの施しは一切受け付けずに旧知の名家を回り寄食してたとも伝わっています。

でもお吉もそんな生活にも疲れ果てたのか豪雨の中、稲梓川上流の門栗ヶ淵に身を投げてその生涯を閉じました。

お吉の遺体は引き上げられたものの「外国人男性に身を任せた醜業婦」「汚らわしい」と蔑まれ3日も放置されたとも。
それを哀れんだ下田宝福寺の住職が境内の一角に葬ります。そのお墓は現在でも見ることができます。

ちなみに宝福寺は唐人お吉記念館もあったりします。


美しく可憐な少女が国家権力に手折られ、時代と世間に振り回されて仕舞いには身を落として身投げしてしまうわけですが、その非凡な生涯が多くの文筆家にはとても魅力的に、あるいは耽美に映るようで、お吉のことが知られるに連れ、彼女の生涯を扱った多くの作品が作られました。

その為、お吉の生涯は実は何処までが真実で、何処から創作なのか判然としません。

尾ひれがたくさん付いていて、しまいには江戸を離れた後、京都に潜伏して攘夷志士を支援していたなどという話しもあるくらいです。

でもそれすらも完全否定することはできません。創作と付き合わせられる史料がないので検証できないのです。

これまでお吉だといわれて紹介されていた写真も、現在は別人の可能性が高いようです。

でも真実は小説よりも奇なりなどとも言われるように尤も突拍子もないことが実は真実の可能性もあるわけです。でも全ては歴史の闇の中です。


現在ではなかなか想像しがたい理由で人生を振り回されたお吉ですが、その後様々な作品となったこともありとても有名になりました。

そして時代も流れ、悲しい生涯を遂げた彼女に同情する向きも強くなりました。そんな世間の流れもあり、斎藤きちの命日3月27日に、お吉が身を投げた門栗ヶ淵(お吉が淵)とお墓のある宝福寺で供養祭が執り行われるようになったようです。

結果論ですが個人的には何故、横浜の元町に腰を据えられなかったのか、それがひどくもどかしく悔しいです。

でもそのまま幸せな余生を送っていたら、今のようにお吉の存在は広まらなかったのでしょう。

それは幸せなことではありますが、後に彼女の人生が多くの作品を残したことを思うと複雑な想いに囚われます。

待たそう思う人が多いからこそこのお吉祭りは続いているのでしょうね。

 

お吉祭りの基本情報

会場

宝福寺 お吉ケ淵 下田市民文化会館

地図

お吉ヶ淵の場所

宝福寺の場所 

近隣からのアクセスと駐車場

お吉ケ淵は414号を下田市街地より北上、蓮台寺駅を通過、お吉ケ淵交差点のもう少し北側、稲梓川沿いにあります。

駐車スペースはありません。

 

宝福寺は414号から中島橋の交差点を真っ直ぐ南下して市街地に入ります。まもなく進路右手側に宝福寺があります。
坂本龍馬とお吉の絵が描いてある看板が目印です。

普段は駐車スペースあるようですがイベント中はわかりません。

一応近所ですと斜向かいの静岡銀行のところに時間制の有料駐車場があります。

公式情報

主催/下田市観光協会

外部サイト 伊豆下田観光ガイド-伊豆下田観光協会公式サイト-